レイキ法雑感 - 臼井霊気療法の手当 |
レイキ法の手当は「ぽかーん」とした気持ちですべきか?
この問いに対する答えは「否」です。
野口晴哉先生*1)が、「輸気はぽかーんとした気持ちでおこなう」といえば、それには全く異論はありません。同様に、臼井先生から直接指導を受けた方達が「ぽかーんとして手を当てる」と言えば、その場合も異論はありません。
しかし、手当をしたことのない人々が「何も考えずに、ぽかーんとして手を当てる」と言っても、それは間違っています。なぜなら、臼井霊気療法の手当は、意識を集中して行うからです。ただ、慣れますと、自然に集中できますので、表現が適切だとは思いませんが、「ぽかーん」とした感じで行なえるようになります。「ぽかーん」の意味が違うのです。そもそも、何も考えないようにすることはできません。何も考えないように努力しても、次から次に考えが浮かんできます。ただ、少し訓練を積めば、特定の考えにとらわれないようにはできます。そうして、さらに訓練しますと、もっと透明な(広がった)感覚を持てるようになります。
もう少し分かり易い例として、剣術を考えてみてください。
無想剣の達人であった伊東一刀斎(いとう いっとうさい)が、剣術の極意は、「無念無想である」といえば、それは正しいでしょう。無意識のうちに相手を倒す。攻撃されても無意識に動く(反応する)。それは、それだけの修練を積んだからであって、身体が無意識に反応できるようになっているからです。
ところが、極意だけを聞いた人が、剣術の極意は無念無想であると人に教えて、「ぽかーん」と立たせても、相手から簡単にぽかーんと打たれるだけであることはお分かり頂けるでしょう。言葉は同じでも意味が全く違います。そのことに気づくべきです。
しかし、手を当てているときに「ぽかーん」としているように教えないと、「治そうと思って必死になってしまう」という疑問を持たれるかもしれません。しかし、臼井霊気療法を学んだ人がそのようなことをすることはありません。あり得ないのです。
たとえば、サッカーをしているときに、夢中になったからといってボールを抱えて走り出すことがあるでしょうか(ゴールキーパーの話ではありません)。サッカーを知らなければ、ボールを持たないようにと言われていても、うっかりそうしてしまうことがあるかもしれません。しかし、サッカーをしている人にはそのようなことはあり得ないはずです。従いまして、「治そうと思って必死になってしまう」ことがあると思っている方は、臼井霊気療法をただの手当て療法として教えられているのだろうと思います。
*1) 野口先生は、ぽかーんとして手を当てることに批判的でした。ぽかーんとして手を当ててもある程度の効果はある(否定的な意味です)というようなことを書いていました。思い出しましたら、本の題名と一緒に引用します。
輸気とレイキは違うと思われるかもしれませんが、本質的な違いはありません。どちらも霊術を基盤としていますので、根っこの部分では同じものを感じます。むしろ、違うのは現代のレイキです。ぽかーんレイキとでも呼ぶべきでしょうか。そこには技術も何もありません。輸気とは全く違いますし、霊気療法とも全く違います。そのことは、ガンなどを患っている方に試みてみれば一目瞭然です。手を当てるだけでも効果があるとはいえ、それで簡単にガンが治るとは思えません。先人である富田魁二先生が、ガンなどの病気を治すためにどれだけ苦労をし、工夫をしたか思い描いてください。
敢えて今の宇宙エネルギーブームに水を差す気はありませんが、かって必死になって病気を治そうと苦労し、努力し、工夫した先人達を想うと、宇宙エネルギーの脳天気さには涙が出ます。まあ、宇宙エネルギーとみんなで叫んでいれば、一部の人には収入になるかもしれませんが、精神性を云々するのであれば、それでうつ病やパニックなどの精神的な病を治す試みをすべきだろうと思います。そうすることによって現実の問題点が理解できるはずです。それが知性というものでしょう。知性無くして、人格の向上や精神性の向上はありえません。